1.スケジュール |
出発: 2014年7月21日〜30日
月日 | スケジュール | 宿泊ホテル |
7月21日 | 成田発10:30 JAL413 ヘルシンキ着14:00 ヘルシンキ空港ー>エスプラナーディ通り(フリー) 18:00 エスプラナーディ通り ー>ヘルシンキ港 ヘルシンキ港発19:30 80Km タリン(エストニア)着21:30 ホテルへ |
ジンゲル (タリン) |
7月22日 | ホテル発9:00 (185Km) タルトゥ着11:40 昼食後 タルトゥ観光(ラエコヤ広場、聖ヨハネ教会、 タルトゥ大学、大聖堂) タルトゥ発15:00 (245Km) リガ(ラトビア)着19:20 |
マリティム パーク (リガ) |
7月23日 | ホテル発9:00 リガ歴史地区観光(ユーゲントシュティール様式【アール・ヌーヴォー】建築群、 中央市場、大聖堂、聖ペテロ教会、スウェーデン門、リガ城、三人兄弟の家、ブラックヘッドのギルド 猫の家、自由記念碑) リガ旧市街で昼食 リガ発13:30 (70Km) バウスカ着15:00 ルンダーレ宮殿観光 バウスカ発16:30 (230Km) ヴィリニウス着20:10 |
エコテル ヴィリニウス (ヴィリニウス) |
7月24日 | ホテル発9:00 ヴィリニウス歴史地区観光(夜明けの門、大聖堂、聖ペテロ・パウロ教会、 聖アンナ教会、展望台、アンバーミュージアムギャラリー【琥珀博物館】) 昼食 トラカイへ (30Km) トラカイ城観光 ヴィリニウス着15:30 |
エコテル ヴィリニウス (ヴィリニウス) |
7月25日 | ホテル発8:50 市内の杉原千畝の奥様が植樹の桜 見学 (110Km) カウナス着10:30 旧日本領事館、大聖堂、ペルクーナスの家、旧市庁舎、カウナス城、アレクソタス展望台) カウナス発14:30 (145Km) シャウレイ着16:50 十字架の丘 シャウレイ発17:30 (140Km) リガ着20:00 |
ディズホテル ベフ(リガ) |
7月26日 | ホテル発9:00 (50Km) スィグルダ城着9:30 スィグルダ城跡、グートゥマニュ洞穴、 トゥライダ城 観光 昼食 パルヌへ (197Km) 15:50着 タリン門、エリザベート教会観光 タリンヘ(130Km) タリン着19:45 旧市街のレストランで夕食 ホテルへ |
ジンゲル (タリン) |
7月27日 | ホテル発9:00 カドりオルク公園、歌の広場、旧市街(アレキサンドル・ネフスキー聖堂、 大聖堂、旧市庁舎、聖カタリーナの小路、トームペアの丘の展望台、聖ニコラス教会) 旧市街で昼食後フリー 添乗員の案内で旧市街午前の観光場所以外を観光 旧市街で夕食後20:00のバスでホテルへ |
ジンゲル (タリン) |
7月28日 | ホテル発9:00 タリン港へ タリン発10:30 (80Km) ヘルシンキ着12:30 昼食 ヘルシンキ市内観光 ヘルシンキ大聖堂、ウスペンスキー寺院、テンペリアウキオ教会 ホテル着18:00 |
ラディソンBLU シーサイド (ヘルシンキ) |
7月29日 | ホテル発9:15 市内を散策(14:00までフリー) ホテル発14:00 ヘルシンキ空港着14:30 ヘルシンキ発17:25 JAL414 |
機内泊 |
7月30日 | 成田着 8:50 | 帰国 |
2. 成田からヘルシンキへ |
ヘルシンキの空港は狭く、入国審査は中国人ツアーが客が多数いたため、1時間待ち。
入国審査を経て、空港の外に出られたのは15時。ヘルシンキ港からタリン行のフェリーボート
の出航は19:30のため、ヘルシンキの中心街でフリータイムで時間調整。
3. ヘルシンキからタリンへ |
ヘルシンキ港からタリンまでは80Km。フィンランド湾をを横切り2時間で
結ぶフエリーに乗船。タリンの物価はヘルシンキよりかなり安いので、買い出し
の人が多数乗船している。酒類は人が手持ちで運べる量に制限されている。
フィンランド湾の突き当りにはロシアのサンクトペテルブルグがある。
(1)ヘリシンキ港
ヘルシンキで乗車したバスはフェリー乗り場まで。バスの積んだスーツケースは運搬用の
車に積み替えてその車と一緒にフェリーに乗る。フェリーがタリンに到着すると
われわれのスーツケースはタリンのバスの積み替え、荷物運搬車はフェリーでヘルシンキ
に戻る。
フェリーターミナル 乗船は19:30発のスーパースター
フェリーに乗船開始。 この通路が長い。その上暑い。距離が500m
近くある。
フェリーの6階に乗船口はある。フェリーは9階まである大きな船。
(2)フェリー
19:30 定刻にヘルシンキ港を出港 小さい島が点在する
フェリーの屋上 船首部分の7階から9階までの吹き抜け
エストニアの首都タリンが見えてきた タリンの旧市街(窓越し撮影)
タリン到着は21:30分、太陽が沈みかけている フェリーの上から見たタリン旧市街
(3)タリン港
まずは、車が下船した。
タリン港からホテルまでは30分以内の距離。本日はタリンのホテルに泊まる
4. タルトゥ |
【7月22日】
エストニアについて
(1)国名 エストニア共和国
(2)面積 4万5227Km2(北海道の約60%)
(3)人口 約129万人
(4)首都 タリン(人口約42万人)
(5)民族構成 エストニア人68.7%、ロシア人24.8%、ほかにウクライナ人、ベラルーシ人
(6)宗教 キリスト教(ほんとんどのエストニア人はプロテスタント)、ロシア正教など
(7)公用語 エストニア語
(8)通貨 ユーロ
(9)歴史
@B.C.30 エストニア人の祖先がエストニアに到着
A1219年 デンマーク王ヴァルデマラU世タリンと北部エストニアを占領
B1285年 タリン、ハンザ同盟都市に
C16〜17世紀 ドイツ貴族の支配力が強まり、エストニア人は農奴に
D1561年 スウェーデンが北部エストニアを、南部をポーランド・リトアニアが支配
E1632年 タルトゥ大学設立
F1710年 ロシアのピョートル大帝エストニアを支配
G1940年 ソ連がエストニア併合
H1991年 エストニア独立
I2004年 EU加盟
■タリンのホテルを9:00に出発
タルトゥまでは185Km 農村地帯をひた走る
タルトゥへの途中にトイレ休憩に立ち寄った場所は、オランダからの開拓民の
場所であった。
■タルトゥ
学問の都市といわれている。
1632年スウェーデン国王グフタフ2世が、スウェーデンの統治下にあった
この地に大学を創設。それ以降学問の都市として繁栄。
タルトゥの街に到着。今日も暑い。気温は30度前後(50年ぶりの猛暑とのこと)
スウェーデン国王グフタフ2世の像(大学創設した王) 赤色のレンガは昔の道路を標示している
大相撲の把瑠都関(引退)はいまでもエストニアの
英雄。現在は、普通の姿でエストニア人と
結婚して生活している。タリンの近郊に在住。 旧市庁舎(1789年建設)とラエコヤ広場
ニュートゥリ通り(両脇は18世紀の建物) タルトゥ大学(1632年創設)
大学の校舎の窓には、大学の有名教授の 大学本部の建物
写真が貼られている
夏休みで本部の内部に入れた
1625年に新聞を発刊した新聞社 14世紀後半にリューベックの職人によって
建てられた聖ヨハネ教会
教会の外壁、内部には様々な素焼きの塑像 内部も素焼きの塑像がある
で装飾されている
素焼きの塑像がある 右の柱が傾いている
正面の家が1500年からの古い家
1775年の大火災で町が焼失した際も
火事はこの正面の家の手前で鎮火した。 人形の家
マリオットの工房
聖ヨハネ教会への道として14世紀に造られた
大聖堂。13世紀後半から建設開始し15世紀に 大聖堂はカソリック教会のため、16世紀の宗教改革
完成した でプロテスタントによって破壊された。
現在は、タルトゥ大学の図書館として一部利用
している
悪魔の橋。 天使の橋
1913年にロマノフ王朝の300周年を記念 1838年最初の大学長のC.F.パロットに
してロシア皇帝アレキサンドルTに捧げ 捧げられた。橋を渡る前に願い事をして無言
られ造られた で橋を渡ると願い事がかなうといわれている
タルトゥから国境を越えてラトビアの首都リガまで245Km。
エストニアとラトビアの国境越へのパスポートチェックはない。
かってのの税関跡を素通りした。
リガ市内 ダウガヴァ川と向こう岸正面の国立図書館
5. リガ |
【7月23日】
ラトビアについて
(1)国名 ラトビア共和国
(2)面積 6万4589Km2(北海道の60%)
(3)人口 約221万人
(4)首都 リガ(人口約70万人)
(5)民族構成 ラトビア人60.5%、ロシア人26.6%、ほかにウクライナ人、ベラルーシ人
(6)宗教 キリスト教(北部、西部は、プロテスタント、東部はカソリック)、ロシア正教など
(7)公用語 ラトビア語
(8)通貨 ユーロ
(9)歴史
@B.C.20 エストニア人のバルト族の祖先が現在の地に移住
A1201年 僧正アルベルトがリガに上陸。ドイツ諸都市のならずものを集め帯剣騎士団を組織
B1282年 リガ、ハンザ同盟都市に
C1629年 スウェーデンがリヴォニアを支配
D1710年 ロシアのピョートル大帝リヴォニアを支配
E1816〜19 農奴解放
F1917年 ドイツ軍ラトビア全土を占領
G1939年 ソ連がラトビアを占領
H1941年 ドイツ軍ラトビアに侵攻。(この時期ユダヤ人を強制収容所へ)
I1944年 ソ連軍が再度ラトビア占領
J1991年 ラトビア独立
K2004年 EUに加盟
■リガのユーゲントシュティール様式(ドイツ語でアールヌーボー)
の建築群
ベルリンの壁の残骸。 ユーゲントシュティール様式の建築群が並ぶ
記念碑として設置している これは19世紀後半にヨーロッパを席巻した
ユーゲントシュティール様式(アールヌーボー)とは建築に人間の頭部像や全身像、
動植物を装飾に用い直線と曲線を巧みに組み合わせた。
19世紀末から20世紀の初頭にかけて作られた。
リガはこの時期、木造建築からコンクリート建築への移行時期でたくさんの建築が
現在残されている
ミハエル・エイゼンシュティンの代表作
ミハエル・エイゼンシュタインがリダーとなって
この建築群が完成した
リトアニアの伝統的様式で作った建物
ライオンは権力の象徴。屋上にライオン 1904年建築。ドラゴンの守り神
フクロウの像が入り口を守っている
■中央市場
リガの中央市場を見学、魚から食料品、雑貨、花までそろっている
■ 旧市街(世界遺産)を観光
(1)リガ 大聖堂
1211年アルベルト僧正が建設。その後増改築され、現在の姿は18世紀後半。
騎士団が占領したリヴォニア(北部ラトビアと南部エストニア)の宗教的
中心をなしてきた教会。
内装は15世紀に完成 ステンドグラス
教会に寄与した家族と聖母マリア アルベルト神父
マルティーンルター(宗教改革者)
スウェーデン王を迎える司教 17世紀に作成の司教が説教をする演台
1833年作成のパイプオルガン(6718本) 旧市街の道路
フレームは16世紀以来のものがある
旧市庁舎前広場。ブラックヘッドの会館 守護神のローランド像
(2)ブラックヘッドの会館
ブラックヘッドとは未婚の貿易商人の 会館上部にある時計。月、日、時間
友愛会。建物はは15世紀に建築されたが 月齢を刻む大時計この時計の製作所は
1941年のドイツ軍の空爆で破壊。 あまりに時計が精巧であったため、
2000年に再建された 2度と時計を製作できないよう目を
くり抜いた
(3)聖ペテロ教会
1209年に建設された
教会の内部
この教会の有力信者の紋章が並ぶ
(4)頭をかきながら読書する少年像
屋根の上のある像 少年の像を拡大
(5)猫の家
この家には裕福なラトビア人が住んでいたが、彼は大ギルドに加わりたい
と思ったが、ラトビア人ということでドイツ人が支配的な大ギルドには入れて
もらええなかった。ギルドの激怒した彼は屋根の上の尻を向けた猫を取り付けた。
(現在は向きを変えている)
大ギルド会館(現在は音楽ホール) リーブ広場
(6)自由記念碑 (7)火薬塔
1935年ラトビアの独立を記念して建設された 14世紀に建設された。外壁の厚さ
塔の上に立つ女性ミルダは3つの州を表す は3m。
星を掲げている
(8)スウェーデン門
リガに残る唯一の城門。
1698年城壁を利用して住宅が建てられた。
それを向の兵舎のスウェーデン兵がよく利用
したことでこの名前がついた
ラトビアの国会 (9)三人兄弟の家
右から長男、次男、三男の家
これは中世の家。長男の家は15世紀
建てられ、一般住宅としてしてはリガで
もっとも古い。3男は17世紀とそれぞれ
建築年代は異なっている
裏側から見た三人兄弟の家 三男は次男の家にくっついている
中世の家の面影を残す内部(パン屋であったとか)
19世紀の設定で映画のロケをやっていた
「100万本のバラの花」の歌(加藤 登紀子が歌った)の原曲について
この原曲は、ラトビア人の愛国詩人レオン・ブリディスが書いた詩をベースに
しており「マーラが与えた人生」という題名がついていた。
「マーラ」とはラトビアゴで命や母性を表す女神の意味。ラトビアはは小国
ゆえにスウェーデン、ポーランド、ロシア、ドイツなどにたえず侵略、蹂躙
されてきた。ブリディスは、ラトビアの悲劇の歴史を「幸せをあげ忘れた」と
表現し、これにバウルスが旧ソ連時代の1981年に曲を付け、女性歌手アイヤ・
クレレがラトビア語で抒情豊かに歌った。当時支配者だったロシア人は言語の
意味もわからず、魅力的なメロディーを受け入れ、ボズネンスキーが作詞した
ロシア語の歌詞では画家の悲恋をテーマにした「100万本のバラ」と変わり、
アラ・ブガチョフという代表的シンガーの歌声で大ヒットした。
その曲を日本語にし歌ったのが加藤登紀子の歌。
6. ルンダーレ宮殿 |
リガから70Kmでバウスカに到着。バウスカにあるルンダーレ宮殿を観光。
ルンダーレ宮殿は「バルトのヴェルサイユ」ともいわれる。バロック様式の豪華な宮殿。
ルンダーレ宮殿は、ロシアの女帝アンナと恋に落ちた貧乏貴族のピロン公が女帝アンナの
後押しでクールランド大公まで昇格し、夏の宮殿として建てたのがのがルンダーレ宮殿。
建築はサンクトペテルブルグの冬の宮殿を手掛けたイタリア人のラストゥレリ。
建設は1736年に開始、途中女帝アンナが死亡し、ピロン公はシベリア流刑になり、
完成は1768年。
バス駐車場から宮殿へ向かう ルンダーレ宮殿の全体図
入り口に向かう 入り口
黄金の間。即位の儀式の広間 天井画
即位の間から白の広間へ行く廊下
白の広間。ダンスホール 天井には太陽をイメージしている
装飾があり、太陽につながる部分には
コウノトリの巣も描かれている
有田焼(一部中国製もある)で飾った部屋
図書館 17世紀の本
もっともかわいらしい部屋
ピロン公 ロシア女帝のアンナ
ピロン公の奥様 寝室
食堂
フランス式庭園
バラも植えられている
■リトアニアのヴィリニウスへ向け230Kmバスで走る
途中ラトビアとリトアニアの国境を通過 ヴィリニウスのホリディーインの
ここはかっての税関跡 レストランに20:00到着
7. ヴィリニウス旧市街 |
【7月24日】
リトアニアについて
(1)国名 リトアニア共和国
(2)面積 6万5300Km2(北海道の80%)
(3)人口 約298万人
(4)首都 ヴィリニウス(人口約34万人)
(5)民族構成 リトアニア人83.9%、ポーランド人6.6%、ロシア人5.4%、ほかにベラルーシ人、ユダヤ人など
(6)宗教 キリスト教(リトアニア人のほとんどがローマカトリック)、ロシア正教など
(7)公用語 リトアニア語
(8)通貨 リタス(2015年1月からユーロ導入予定)
(9)歴史
@B.C.20 バルト族の祖先が現在の地に移住
A1236年 シャウレイ近郊でセミガリア人とサモギティア人の連合が帯剣騎士団を破る
B1316〜41年 ケディミナス大公 リトアニアの領土拡大
C1385年 リトアニア大公ヨガイラがバルト海から黒海にいたる大国に拡大
D1569年 ポーランドに吸収される
E1795年 ロシア領に
F1915年 ドイツ軍リトアニアを占領
G1939年 ソ連がリトアニアを占領
H1941年 ドイツ軍リトアニアに侵攻。
I1944年 ソ連軍が再度リトアニア占領
J1990年 リトアニア独立
K2004年 EUに加盟
ホテルは9時に出発
■夜明け門
9つあった城門の内1つだけが残った。なぜ残ったかは、この門の上に
教会があったから
門の上部にリトアニアの紋章が見える
夜明けの門の右は城壁 左は建物が続く
夜明けの門を城内から見ると上部に教会 教会のイコン
夜明けの門を超えた城内
■聖ペテロ・パウロ教会
1668年から7年かけて作成。教会内部は2000以上の漆喰彫刻で装飾
この漆喰装飾はイタリアから招かれた彫刻家が創った
この彫刻はスペインから贈られた
左がペテロで右がパウロ
マグダラ・マリア
■展望台
ケーブルカーで展望台へ
ヴィリニウスの旧市街
新市街 ケディミナスの塔とリトアニア国旗
リトアニア大公
最初で最後の王 レンガの敷石は城壁の跡
大聖堂の鐘楼(高さは53m) 1989年ここを起点にバルト3国の600Km
200万人の人が手をつなぎソ連からの
独立の団結の意志を示した
■大聖堂
最初の教会は13世紀にベナクーナスを祀る 大聖堂の内部
ものであった。最初はゴシック様式であったが
18世紀に大改築されクラシック様式となった
聖カジミエル礼拝堂 120年後にカジミエラス王子の棺を掘り返した
リトアニアの守護聖人となったカジミラス 際の様子。遺体は死後と変わらなかった
王子を安置している
手が3本ある ここに眠っている人の像
ケディミナス大公(1316年〜41年) 大聖堂、鐘楼、ケディミナス大公像
リトアニアの領土を東に拡大した王
■聖アンナ教会
15世紀末に建築された後期ゴシック様式 ベンナンディン教会
33種類の異なったレンガが使われている 15世紀半ばにフランシスコ会によって建てられた
聖ミカエル教会 アンバーミュージアム(琥珀博物館)
17世紀初頭リトアニア大公国のレオ・サピエガ
が創設
レストランの前のストリートミュージシャン 大聖堂へと続く道
ヴィリニウスで昼食後30Kmバスで走りトラカイに向かう
8. トラカイ |
ヴィリニウスに首都が移る前はトラカイに首都がおかれていた
トラカイ城
14世紀後半の建設されたがその後廃墟となった
1961年から復元を開始し、1987年に15世紀の姿となった
トラカイ城 湖に囲まれているので橋を渡って行く
城門が見えてきた 城門
内堀の橋を渡る 城の内部。3階建て
民族衣装の展示がある 城の入り口の跳ね橋。敵侵入の際は橋を
上げて敵に侵入を防ぐ
たいへん風光明媚な観光地
9. カウナス |
【7月25日】
ホテルを出発8時50分
ヴィリニウス市内にある杉原千畝氏の妻幸子さんが植えた桜を見るために
10分早く出発した。
ヴィリニウスノの新市街
■ヴィリニウス市内のネリス川べりに桜並木
2001年10月2日にヴィリニウス市内で、杉原千畝氏の妻「幸子さん」(当時92歳)
が出席して桜の植樹がなされた。
今回、ホテルを10分早く出発してその場所を見た
杉原千畝氏のレリーフ 桜の植樹の際の写真(Webからコピー)
真ん中に幸子さんも写っている
桜の木
ヴィリニウスから110Kmでカウナスに到着
■ 旧日本領事館
杉原千畝氏について
第二次世界大戦当時はリトアニアの首都はカウナスであったので、そこに日本領事館がおかれて
いた。領事館は市の中心から少し離れた丘の上にあった。
1940年7月のカウナスの領事館に突然人垣ができた。それはナチスに追われてポーランド
からリトアニアにきたユダヤ人。シベリアを経由してアメリカに行くために日本通過ビザを求めた
ものであった。当時の領事杉原千畝氏は本国の指示に反して1600件のビザを発行、6000人
のユダヤ人を救済した。そのため「日本のシンドラー」と言われている。
旧日本領事館 領事館の入り口
現在は記念館となっている 執務室は当時のまま保存
当時のビザと執務机 杉原千畝氏と当時の領事館関係者
■カウナスのアレクソタス展望台
展望台へのケーブルカー(80年前から営業している) 内部はすべて木製
展望台から見た旧市街
アレクソト橋
手前がポーランド領で対岸がロシア領であった
時代。両者で暦が異なり日付が13日の差が
あった。このため、この橋は長い橋と言われる
ヴィタウタス大公教会 ■ペルクーナスの家
15世紀前半に建てられた 雷神(ペルクーナスを祀る神殿があった)
■旧市庁舎
現在は結婚登記所。18世紀半ばに現在の姿。 旧市庁舎前広場は中世には市場がたった
■大聖堂
15世紀に造られた赤レンガの美しい教会 教会内部
マグダラのマリア
この肖像を、ロシア兵が取り外してロシアへ持ち去ろう
と3回試みたが、取り外すなとの声が聞こえて
結局取り外せなかったのでロシアの略奪を逃れた
■カウナス城
13世紀にドイツ騎士団の侵略を防ぐためにつられた城。
1363年ドイツ騎士団に占領され破壊されたが15世紀に
再建された
カウナスの近郊のレストランで遅めの昼食をとり、シャウレイまで145Kmで到着。
十字架の丘を観光
10. 十字架の丘 |
ここは墓地ではないので死体はない。最初の十字架は1831年にロシアに対する
蜂起の後、処刑や流刑にされた人々のために立てられた。
ソ連時代は、KGBがなんどもブルドーザを使って十字架をなぎ倒し、焼き払ったが
その都度、夜陰に紛れて新たな十字架を立てた。
十字架の丘への入り口 丘の上まで歩く
草原を歩く 無数の十字架が願い事を書いて立ててある
願い事がかなうそうです
十字架の数は2万5千本を上回る
シャウレイから140Kmでリガです。
リガのホテルには20:00到着
11. スィグルダ |
【7月26日】
リガのホテルを9時に出発。スィグルダまで50Km
森の中を走るハイウェー。左にはバルト海
スィグルダに到着
■グートゥマニャ洞窟
高さ9m、深さ14mの赤砂岩の洞窟。ここは氷河が削ってできた。
まずは森の中を洞窟に進む 洞窟には文字が刻まれている
古いものは16世紀のものが
■トゥライダ城
トゥライダとはリーヴ語で「神の庭」の意味
13世紀の初めに騎士団がリーヴ人の王カウボの城を破壊し、その後
リガのアルベルト僧正によって同じ場所にこの城が造られた
駐車場から森の中を進む 菩提樹のしたに眠る「トゥライダのバラ」
と言われた美女の墓。
1代目は雷で倒れ2代目の菩提樹がある
トゥライダ城
130段の階段がある塔へ登る
塔の上からの眺め 塔の上の内部
トゥライダ城(塔から見た)
■スィグルダ城
帯剣騎士団によって1207年から建設が開始
され1222年に完成した。
スィグルダ城の前に建物が建てられた これがスィグルダ城
十字軍の十字が見える
スィグルダで昼食後、エストニアのパルヌを目指して197Kmのバスの旅
途中、ラトビアとエストニアの国境を通過。旧の税関跡
12. パルヌ |
エストニアのバルト海に面した街。「夏の首都」ともいわれる
パルヌは1154年にアラブ人の旅行家の記録に最初登場する。
あいかわず異常気象で30度を超える暑さが連日続く
パルヌを街を行く
パルヌ少女合唱隊? ■エリザベート教会
バロック様式の建物。建設開始時、ロシア女帝
エリザベートが資金を出したのでその名前がついた
エリザベート教会の完成は1747年
■タリン門
かって3つあった17世紀の城門の1つ。
バルトタリンの商人がバルト海から運河を利用して
タリン門まで来て、タリン門からパルヌ城内に入ったことから
その名がついた
森の中を行く。前方に運河 門の上部にはタリンの紋章
ここが運河。バルト海につながる。右手がタリン門
ヤンセンさん。
1857年にエストニアで最初に新聞を発刊
■バルト海の海岸(特別に立ち寄り)
バルト海の海岸ではたくさんの人が海水浴を楽しんでいた
ここは海岸からすぐに森が始まる
■タリン旧市街
パルヌから130Km走り、タリンの旧市街に到着。19時40分
旧市街のレストランで夕食
13. タリン市内 |
【7月27日】
エストニアのタリンの観光でバルト3国の旅も終わりです。
連日晴天の上、30度越えの日々です。その上、冷房設備
がほとんどない地方ですので暑さがたいへんです
■カドリオルク公園
大北方戦争(1700年〜1721年)後、この地を手に入れたロシアのピョートル大帝
がエカテリーナ妃のために離宮と公園を作った
森の中を離宮へと進む 離宮
■歌の広場
5年に一度のエストニア最大のお祭り。歌と踊りで最後は歌のコンサート
今年(2014年)の7月4日から開催されていた
歌の広場の看板(世界中から有名な人も来る) 歌と踊りの祭典は第1回(1869年)から続いている
ステージには3万5千人が並ぶ グスタフ・エルネザックさん(教師だった)
観客は草の上に 別名(歌の革命)タリン独立の指導者
■ タリン歴史地区
■トームペア
石灰岩の層でできた高さ24mの丘。常に権力者の居城となった
(1)トームペア城 (2)国会
「のっぽのヘルマン」と言われる塔 かっては宮殿
■アレキサンドル・ネフスキー聖堂
1901年支配者の帝政ロシアによって建設 教会の入り口
ロシア正教教会。国会と道路を挟んで反対側
にあり、いまだにロシアの脅威を感じている
教会の内部
■ メキシコ大使館 ■トームペアの展望台1
トームペア内にある 聖オレフ教会の塔、タリン港、
フィンランド湾が見える
■トームペアの展望台2
聖オレフ教会の塔、フィンランド湾が見える
■オランダ大使館
トームペア内部にある。先日のウクライナでのマレーシア機の撃墜で
多数のオランダ人が犠牲になったので、花束が玄関に飾ってある
■大聖堂
1219年デンマーク人がトームペアを占領してすぐに建設した。
エストニア本土では最古の教会。聖母マリアの大聖堂
■聖ニコラス教会
船乗りの守護聖人ニコラスに捧げられ、13世紀前半にドイツ商人居住区の中心に建てられた
死のダンス
リューベックの画家、彫刻家のベルント・ノトケによる15世紀後半の作品
左から法王、皇帝、皇女、枢機卿、国王がいやいやながら「死」のダンスを
繰り広げる様子が描かれている
主祭壇
15世紀のリューベックの職人、ヘルメン・ローデ
の木製祭壇。左は船乗りや貧しい人々を救う
聖ニコラスの生涯。右は異教の偶像破壊し殉教
した聖ヴィクトルの生涯を描いている
ここが旧市街の中心 この道は「ヴィル門」に続く
■セーターの壁
城壁に沿って手編みのセーターを販売している店が並ぶ
すべて自分で手編みで作成して自分で販売している
■聖カタリーナの小路
中世の雰囲気がよく残っている
聖カタリーナの小路はこのトンネルから始まる
左には工房が続いている
右はかっての修道院
正面はロシア正教のニコラス教会
この道はロシア通りといわれている
■旧市庁舎前広場(ラエコヤ広場)
旧市庁舎前広場は旧市街の中心で、舞台も作られ、屋台も出てお祭りの雰囲気
旧市庁舎
この広場のすぐ近くのレストランで昼食。
■ 午後は主にトームペアの山の手とは反対に下町を中心に添乗員の案内で散策
■マイアスモック
1864年創業のカフェ兼お菓子屋 タリン港の方へ下る
■ 大ギルドの会館
1410年に建てられた。ギルドとは同じ職業の人々が無駄な争いしないように
作った組合。1920年にギルドは解散した。
■聖オレフ教会
13世紀の半ばに記録が現れる。ノルウェーの聖人を祀った教会
15世紀に大規模な改修が行われ、その後雷で焼け落ちたが
1840年にほぼ現在の姿になった。
124mの高さの塔は旧市街では最も高い
城壁の外から見た聖オレフ教会
■ブラックヘッドの会館
守護聖人にエチオピア生まれの聖人マリティウスを戴いた
友愛会の会館。ブラックヘッドの友愛会は1399年に組織
されたギルドのような社交団体。
■三人姉妹
15世紀に建てられた集合住宅(商家)。建物の上部にはクレーンが設けられ
屋根裏部屋の倉庫に物品を引き上げられるになっていた。
現在三人姉妹はホテルとなっており、現天皇が皇太子時代に
ここに宿泊した。
■スール・ランナ門
この先はタリン港 紋章(門から旧市街地を見る)
■ふとっちょマルガレータ
町のもっとも重要な出入り口を守るため1529年建てられた砲台。直径24m、壁の厚さ4.7m。
砲弾が発射されなくなって、監獄、倉庫、兵舎として利用。ここが監獄として利用されていた時代
に、囚人の食事を切り盛りする太ったおかみさんがいて、囚人から尊敬の念をもって慕われていた。
彼女の名前が「マルガレータ」で塔の名前となった。
右の門がスール・ランナ門
■ヴィル門
ラエコヤ広場からつながっている。この門の外はバス、市電のターミナル
■聖霊教会
市庁舎、聖霊教団救貧院の礼拝堂として14世紀半ばにに建築
壁の時計は1684年製でタリンでは最初に取り付けられた公衆時計。
■マイアスモック
1864年創業(日本では幕末)のタリンで最古のカフェ・お菓子屋
カフェの内部。
お茶とお菓子を購入して席で食べる マイセン、ジノリなどのコーヒーカップ
老舗の味を味わう
■城壁めぐり
トームペアにある城壁に登る まず塔にある入り口から登る
塔の階段は急で幅も狭い、手すりも一部ロープとなる
登った城壁
■旧市街地での夕食
旧市街地からホテルまでは遠いので、バスが用意された。
ヴィル門近くからの発車が20:00のため、早めの夕食
スモークサーモン、ニシンの酢付け エビ料理を注文
燻製(固いサーモン)、オリーブなど
パンプキンスープ
この量です。結局、満腹でデザートは頼まず レストランの外では民族衣装に民族楽器の演奏
20:00発のバスでホテルに戻る
14. タリンからフェルシンキへ |
【7月28日】
ホテル発9:00でタリン港に向かう。タリン港発10:30の高速船でヘルシンキに向かう
タリン港でバスに乗せたスーツケースは運搬用の車に積み替えて同じ船でヘルシンキ
に向かう。バスはタリン港までで、ヘルシンキでは別のバスとなる
フェリーのため、車の上下船通路の上が タリン港発10時30分の高速船「STAR号」
乗客用の乗船通路となっていため、長い 9階建ての船。ヘルシンキまで80Kmの距離
アプローチ(400〜500m)を歩いて乗船 を2時間で結ぶ
船内。スーパーや免税品店もある 船上から見たタリン旧市街
ヘルシンキ |
タリン港を10分遅れで出航したが、ヘルシンキには定刻の12:30に到着。
ヘルシンキ市内のレストランで昼食後、市内観光へ。
ヘルシンキは1995年に訪問した北欧の旅の際にも訪れているので
その復習でした。
■テンペリアウキア教会
1969年完成。大きな岩をくりぬいて創った。音響効果がよいのでコンサートもよく開かれる
■ウスペンスキー寺院
ヘルシンキが帝政ロシア時代に造られたロシア正教の寺院
本日は月曜日で教会は閉まっていたので外観のみ
■大聖堂
1830年〜1852年にかけて建築されたルーテル教会
教会の前は元老院広場
大聖堂の内部
■7月28日の夕食
この日は、宿泊のホテル(港の近く)から歩いて10分ほどの郷土料理のレストラン
で夕食
サラダバーがあり、ビュッフェ方式 バルト海でとれたアジのフライでした
となっており、サラダを肴に乾杯 マッシュポテトの上に大量に盛り付け
されています。これで1人前
こちらは、トナカイの肉です。これもマッシュ
ポテトの山の上たくさんの肉です。
たべてもたべても減りません
結局、満腹でデザートは注文できなかった。
注文時に店員がデザートは後にしたらの意味が理解できた
15. ヘルシンキ散策と帰国 |
【7月29日】
ホテルを9時15分頃に出発、徒歩で散策した。
これはヘルシンキ駅
エスプラナーディ通り
ヘルンシキの繁華街(いわゆるヘルシンキ銀座)
ヘルシンキ空港
17時25分発の成田行きに搭乗と同時に土砂降りの雨
前日はスウェーデンのストックホルムは嵐だったようで
現地のガイドは1日遅れでヘルシンキにやってくるといっていたが
このツアーには晴れ男、晴れ女が多数いた見られ、帰りの飛行機
搭乗時で嵐となった
飛行機の離陸後に揺れがあると放送があったが、ほとんど揺れなくて無事成田
に翌日7月30日の8時50分に到着
バルト3国とフィンランドの旅 |